リチウム空気電池から糖の人工合成へ――。研究対象を大幅に変更した背景には、化学現象を非線形数学の視点で解くというアイデアの着想がありました。
入社してリチウム空気電池の研究を始めてから6年ほど経ったころ、私の研究に対する価値観が大きく変わる出来事がありました。
リチウム空気電池は理論的なエネルギー密度が非常に高いことから次世代電池の一つとして注目されていますが、あるところまで放電が進むと電池電圧が急低下してしまうという現象が知られていました。放電容量を向上させるために電池電圧の急低下の要因を探る中で、ある特定の溶媒を使った場合に電位が振動する特徴が現れることを発見したのです(図1)。この発見は現象としてとても興味深かったのですが、どう解釈すればいいのか当時の私には分からず、あまり深掘りができませんでした。
そんなある日、社内で異分野交流を目的とした合同研究発表会がありました。私はちょうど発見したところだった、電池電圧の急低下の直前に現れる謎の振動挙動について発表しました。私の次の発表は、数理解析を専門とする方の「スムーズだった車の流れが、ある数の車を超えた途端に渋滞が発生するように、突然状態が変化する予兆を数学的にどう捉えるか」という研究でした。定常状態からの急変化を告げる予兆――。リチウム空気電池と交通量の変化、研究対象は全く違うはずなのに、「ひょっとして私の研究と同じ話をしているのでは?」と頭の中で何かがつながったような気がしました。少し大げさかもしれませんが、現象を理解するためには様々な視点があることに気づき、自分の研究観がガラッと変わったと感じたのです。
リチウム空気電池で見られた謎の電池電圧振動は、それまでの私にとっては化学反応の範疇で考えるべき問題でした。しかし、数学的に別の角度から解釈できるかもしれないと思い、電気化学の振動挙動に詳しい社外の共同研究者の御協力の下でアプローチを変えてみました。その結果、電池電圧振動と電池電圧の急低下はどちらも負性微分抵抗と呼ばれる現象として理解できることが分かり、放電時の電極表面の状態が電池電圧によって可逆的に変化するというメカニズムの解明につながりました(関連記事:リチウム空気電池の放電容量を決める重要な因子と現象の発見)。
こうした経験を通じ、私は「非線形な化学現象」そのものに関心を持つようになりました。一般的な化学反応式で記述される化学反応では、反応開始直後の反応速度が最も速く、生成物の量の増加が観察できます。一方の非線形な化学現象では、「反応開始直後の反応速度は遅く生成物の量はほとんど変化しないのに、反応時間がある閾値を超えると生成物の量が急激に増加する」といったことが起こります。しかも閾値が現れる時間は一定ではなく、挙動の予測が難しいという特徴があります。しかし、難しいということは深掘りする余地があるということです。次の研究対象は、数学を使うことで「化ける」可能性がある化学反応にしたいと考えました。
そうした視点で化学反応を見てみると、面白いテーマがたくさんあることに気付きました。その中でも次のテーマに選んだのが糖の化学合成です。炭素原子1個から成る単純な化合物(C1化合物)であるホルムアルデヒドは、塩基性条件下で「ホルモース反応」と呼ばれる糖合成の化学反応を起こすことが古くから知られています。ホルモース反応では反応の起点となるC2化合物を投入することで、C2化合物とホルムアルデヒドと結合することでC3化合物に成長し、C3化合物がC4化合物になって、というように次々と反応が進んで、結果的に様々な糖が合成されます。
非線形という観点からホルモース反応に注目したのは、この反応が一方向に進むのではなく、途中で一部のC4化合物が2個のC2化合物に分解されるという反応経路があるためです。この「自己触媒反応」と呼ばれるサイクルが存在することによって、反応の起点となるC2化合物が増えるため反応速度が上がり、また、最初に投入したC2化合物以上の数の糖が合成されることになります。ホルモース反応はまさに非線形な化学反応というわけです(図2)。
一方で、ホルモース反応が起こる塩基性環境では、糖の酸化分解反応や、ホルムアルデヒドを消費する別の副反応が同時に起こってしまうことから、実際はホルモース反応で糖の収率を向上させるのは困難でした。そこで私たちは大阪大学、産業技術総合研究所との共同研究を始め、これらの副反応を抑制した状態でホルモース反応を進行させるべく、中性条件下で機能する触媒を探索しました。その結果、タングステン酸ナトリウムやモリブデン酸ナトリウムといった金属オキソ酸塩が、中性条件下で糖を合成する触媒として機能することを発見し、自己触媒反応サイクルが機能していることが示されました(関連記事:“生物が食べられる糖”の高速化学合成)。また、合成された糖は土壌中の微生物が餌として利用できることも分かりました。微生物が利用可能ということは、バイオプロセスによって将来的に燃料や材料、食料に変換することにもつながるかもしれません。
ホルモース反応で合成される糖には様々な種類があります。ちょっとした条件の違いでどの糖ができるか決まるのです。非線形な化学反応の最たるものは生命現象だと思いますが、生物はこうした反応を使い分けて環境に適応しているわけです。非線形という言葉の先に私が思い描くのは、頑健性があり自律的に機能する「生物的な振る舞いをする化学反応」です。生命現象のように環境に応じて生成物を作り分けられるようなシステムの開発につなげていきたいと考えています。
2021年からクロスアポイントメントとして大阪大学 太陽エネルギー 化学研究センターの特任教授も務めています。若い研究者と仕事をすると刺激を受けることがとても多いです。例えば、卒業研究を始めたころは何も知らなくても、終わるころには研究室での活動で必要なことを1人でできるようになっている人も多く、その成長速度にはいつも驚かされます。新しい情報を仕入れてきたり、新しい技術を習得したりすることに関しては、若い研究者の方がずっと早いです。置いて行かれないように努力することで、私自身の成長にもつながっています。
企業の研究所では、新しいテーマを興味本位だけで設定するというわけにいきません。しかし、若い研究者の驚異的な成長を間近で見ている私には、専門分野を極めることと同様にチャレンジを続けることも重要だと感じられます。そのバランスを取ることは必ずしも簡単ではありませんが、企業研究所と大学の両方を知ることができる環境にある私が率先して実践しなくてはいけないと考えています。
ここまでさんざん非線形性の魅力を語っておいて恥ずかしいのですが、私自身はまだまだ専門家ですと胸を張って言うことはできません。それでも「化学反応のどこで数学を使うと面白いことが分かりそうか」というセンサーの精度は高くなっていると思います。リチウム空気電池や糖の合成という進行中のテーマにこだわらず、これからも面白そうなことを常に探してチャレンジしていきたいと思います。