ガラスと機械学習――。全く別物に見える2つのテーマをつなぎ、気候予測など大きな社会課題を解決するための技術開発に挑戦しています。
私の興味は「ガラスの特性」と「AI・機械学習技術」をつなぎ、両者の知見を互いに応用し合いながらより革新的な発見につなげることにあります。意外に聞こえるかもしれませんが、実は両者は似たような数理的構造を持っているのです。
ガラスは非晶質とも呼ばれ、分子や原子といった構成要素が結晶構造を持たないまま固まって固体的な振る舞いをするようになった物質の総称です。一般に、液体が結晶化する際には構造秩序を形成しながらエネルギーが減少していきますが、ランダムな状態のまま固まったガラスはエネルギーの減少が途中で止まってしまった状態となっています。こうした特殊な性質により、ガラスの物理特性を解明することは長く基礎物理学上の課題とされてきました。
一方の機械学習は、最近の目覚ましい生成モデルの技術進展から、一般にも馴染み深い存在となってきています。これらの技術の学習過程では、モデルから出力される予測値と訓練データが示す正解値との誤差を最小にすることを目指します。この誤差を数式で表したものを損失関数と呼び、その損失が最小になる大域的な最適解を探索するのです。しかし、パラメーターの設定によっては局所的な最適解の谷にはまってしまい、それ以上誤差を縮められなくなることがあります。
この局所的な谷にはまって大域的な最小値にたどり着けないという現象が、ガラスで見られるエネルギーが下がりきらずに固まってしまうという現象と、まさに同じ構図と言えるのです(図1)。私は、機械学習で得られた知見を用いることで、古典的かつ重要なテーマでありながらいまだに謎が多いガラスの研究に一筋の光明を見出せるのではないか、あるいはその逆で、ガラスの知見を応用することで機械学習技術の理解や高性能化につながるのではないかと考えています。
直近では、ガラスの外力下での破壊、いわゆる降伏現象を大規模な分子シミュレーションにより解析した論文を出版しました(関連記事:ガラスのランダムな構造が織りなす破壊現象の特殊性の解明)。近年、降伏現象は臨界現象の一種であることが明らかになりました。臨界現象とは臨界点と呼ばれる特定の条件下で特異的な性質が現れる現象を指し、様々な系で共通する振る舞いが観察されるという特徴があります。特に降伏現象が示す臨界性は、雪崩や地震といった災害現象性質に類似していることが知られていましたが、私たちの研究の結果、ガラスの降伏現象は従来の臨界現象の常識に反する特有の性質を示すことが分かりました。こうした知見はガラス自体の理解に留まらず、防災といった観点でも有意義な知見をもたらすかもしれません。
また、機械学習の側面では、気候変動予測データを詳細化する機械学習アルゴリズムを構築しました(関連記事:国立環境研究所と共同で、気候予測データを機械学習により詳細化する技術の開発に成功)。気候は大気や海洋の地球規模での循環を通して相互に影響しあっているため、正確な予測のためには地球全体を考慮に入れたモデルによる数値計算が必要です。計算量が膨大になるため、得られる予測データは現状100 km四方程度の粗い空間解像度のものが一般的ですが、政策立案などの意思決定のためには少なくとも数km四方程度の解像度を持つ気候情報が必要とされています。私たちはこのギャップを埋めるための機械学習手法を提案しました。機械学習による画像の高精細化という、画像解析系の分野で先行している技術を気候予測に応用することで、粗い解像度のデータから1ピクセル2 km四方程度の高解像度データを得る技術を実現したのです(図2)。
これらの研究は、ガラスと機械学習のそれぞれを深める段階にとどまっており、まだ両者をつなげる段階には至っていません。現在はそれぞれの領域での事例を増やすだけでなく、それぞれの間をつなぐような研究も進めているところです。将来的には、これらのアプローチが確かに地続きのものだと、専門家ではない人にも胸を張って説明できるような成果が出せればと考えています。
今の自分の研究スタイルは、「統計力学という自分のコア技術を機械学習に拡張し、この2つを武器として、気候変動のような大きな社会課題に挑戦する」というものです。しかし、このスタイルが確立できるまでにはかなりの紆余曲折がありました。
私は修士課程を修了した段階で一度別の会社に就職していて、その後大学院の博士課程に戻り、ポスドクを経て豊田中央研究所に入社したという経緯があります。新卒時は製薬企業で医薬品の開発職に就いたのですが、あるとき目の前の業務を心から楽しめない自分がいることに気付きました。それはなぜなのか突き詰めて考えていくと、業務内容のせいではなく、自分自身が将来のキャリアを描けていないことが原因だと分かりました。
それまでの私は、具体的に「何が知りたい」という目標や自分なりの価値観がなく、与えられたテーマに取り組んできただけでした。研究者には一貫して「これがやりたい」という軸がしっかりしている人も多い中で、そうした軸を持てない自分のことを、ずっと情けなく思っていたのです。自分の人生を自分事として改めて見つめ直した時、「コア技術がしっかり確立されていれば、研究対象が何であったとしてもきっと楽しめるはずだ」との考えに至り、大学院に戻ることにしたのです。
博士課程ではガラスの持つ普遍的な性質に魅せられ、ガラスなどのランダムな系を対象にした統計力学をこそ自分のコア技術だと意識するようになりました。そしてポスドクを経て次のキャリアを考えていた時、たまたま豊田中研の公募情報が目に留まりました。公募が出ていたのは気候予測に関するプロジェクトで、求人票にかなり具体的な要件が書いてあったのですが、そのどれもがそれまで私が経験してきたこととピタリとあてはまったのです。紆余曲折を経てきたことが結果的にマッチングにつながり、そして今の研究スタイルにもつながっているのだと思います。
コア技術を様々な文脈で応用していく自分にとって、同一組織内に様々な分野の研究者が集まっている豊田中研はこの上ない環境です。様々な分野の研究者がいるというのはもちろん総合大学でも同じですが、分野間のコミュニケーションコストが高いこと、成果の見通しが立てにくいこと、成果の取扱いに対して分野間で考えが異なることなどが障害となり異分野連携の実現は一般に困難です。豊田中研では、成果創出までのリードタイムが長い挑戦的な課題の場合、まだ有望な既存手法を手の内化する段階にあっても研究フェーズや目的に即した評価が得られる体制が整っていて、異分野連携に挑戦しやすい環境にあります。私自身の研究ではまだ、直接的な成果に結びついたものは少ないですが、現在も様々なプロジェクトに並行して参画し挑戦を続けています。
当社のような企業研究所には大学にはないメリットがたくさんあるものの、少なくとも基礎物理学をやっている人間がキャリアを考えるうえでメジャーな選択肢になっていないのはとても残念なことです。私は自分が率先して革新的な成果を出し続けることで、基礎物理学の研究者が活躍できるフィールドは民間もあることを証明したいと考えています。それが学問分野の発展だけでなく、よりよい社会の実現にもつながると信じているからです。